• 2018.07.2211:30
  • 企業/業界研究

【就活生必見】三井グループの企業研究

2015年朝ドラ「あさが来た」のヒロイン広岡浅子さんの実家今井家のモデルは、三井家でした。明治の激動期を描いた本当に毎日ワクワクしながら見られたドラマだったのではないでしょうか。三井グループの基である、三井家も同様の時代を生き抜いてきたグループです。果たして、現在の三井グループは? どういった企業があるのでしょうか。
(※こちらの記事は、2016年7月22日に公開したものを更新しています。)
 

 三井グループとは?

三井グループの創業家三井家は、平安時代に権勢をほしいままにした藤原道長の子孫であると言われています。平安末期に、近江地方に移り住んだ際に、琵琶湖畔の領地で三つの井戸が見つかったため三井姓に改めたとか。戦乱の時代を経て、江戸時代に、三井の創業者と言われている三井高利は、松坂で質屋や酒・みその商売を始めました。父親が越後の守であったことから、「越後殿の酒屋」と呼ばれるようになり、これがのちに「越後屋」の屋号を名乗るきっかけとなりました。江戸に移って、三井越後屋呉服店を開業、「三井越後屋」から「三越」の名称が誕生しました。

 
江戸で三井越後屋呉服店は、小札を付けて店頭での「現金売り」、即座にしたて手渡すイージーオーダー「仕立て売り」などの新しい手法で繁盛しました。このころに暖簾印として使われ始めたのが「丸に井桁三」の紋です。丸は天、井桁は地、三は人を表し、「天地人」の三才を意味しています。このマークは現在も三井グループの一部の会社の社章として受け継がれています。

 
呉服店を開いて10年後の1683年に江戸で、1686年に両替商を開き、為替業務を始めて繁盛します。これはのちに三井銀行となる企業の始まりでした。三井高利は、三井家の結束を図るため、長男を総領家とする本家と連家を定め、6本家と3連家、後に三井11家となる、三井グループを興しました。明治維新後、三井財閥は日本最大の財閥でした。

 
第二次世界大戦が終わって、GHQによる財閥解体がなされました。これにより、三井系各社の首脳陣は追放されました。各財閥グループは、護持運動を展開し、三井グループとしての連携を守るために発足したのが「月曜会」でした。1950年の2月27日月曜日に発足したので、「月曜会」と命名されました。三井グループとして復活しました。1961年には、三井グループのPR活動を行う「三広会(後の三井広報委員会)」が設立されました。社長会である「二木会」もでき、三井グループとしての繋がりを取り戻し始めます。昭和45年にアジアで初めて開かれた大阪万博では三井グループの32社が「三井グループ館」を、隣には「東芝・IHI館」を出展し、「三井ゾーン」を形成しました。

 

 三井グループの企業

平成に入って多くの業界で業界再編が進むと、三井グループの各社も変遷をたどります。王子製紙は、神崎製紙、本州製紙と合併、日本製紙は大昭和製紙と合併後日本製紙グループを設立、小野田セメントは秩父セメントと合併し太平洋セメントになりました。三井石油化学工業と三井東圧化学からは三井化学が誕生しています。三井グループの源流企業は三越ですが、三越は伊勢丹に救済される形で合併し、現在は三越伊勢丹ホールディングスとなっています。
住友グループとの連携も生まれました。大阪商船三井船舶はナピックスラインを吸収し商船三井となりました。三井建設は住友建設と合併し三井住友建設が生まれました。三井銀行も、現在は三井住友銀行になり、三井海上火災保険は三井住友海上火災保険となりました。三井系と住友系が合併した金融系のグループ各社は三井住友ファイナンシャルグループを形成しています。三井信託銀行と住友信託が合併し、三井住友トラスト・ホールティングスが生まれています。

 
2016年現在、月曜会に加盟している企業は、以下の企業です。(トヨタ自動車は、二木会、三井広報委員会に加盟していますが、月曜会はオブザーバー会員です。)

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